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2006年12月2日 ALS国際会議に参加して 

ALS/MND国際シンポジウムで英語で発表してきた。私の出番は、シンポジウムの前座ともいうべき、アライド・プロフェッショナル・フォーラム(APF)という一日がかりのイベントで、そのうち午後の日本人5名を集めたセッションであった。フィラデルフィア、ダブリンと、この国際会議に参加してきたので、私にとっては3回目のシンポジウムである。今回の私の演題は、Developing an automatic suction system on TPPV(気切人工呼吸における自動吸引装置の開発)というものである。ここ数年開発を続け、ローラーポンプと、カフ下部内側偏位型下方内方吸引孔の実用化をもって、完成させることができたシステムである。国際学会に演題を応募するというのは、なかなか私のような普通の日本人にとっては大変な作業であり、本部から何度も送られてくる膨大な英文を読んで、アブストラクトや履歴などを英文で送るなど、発表までに相当の努力を要求される。また、発表にしても、果たして自分の作った英文が、ネイティブに不自然に思われないか、というより正しく理解されるかなど、英語コンプレックスのあるわが身としては心配がつきない。この点については、ネット上の翻訳エンジンで(exciteというサイトのエンジンが最良のように感じた)基本的な英文は比較的簡単に作れるうえ、11月になって、近くの町の英語研修派遣員が親切にチェックしてくれて、また発音指導などもしてくれたので、それなりに安心して参加することはできた。

今回の国際会議が日本で開かれるというのは、実はかなり大きな意味がある。数年前からわが国の患者団体であるJALSAは、国際会議にALS患者さんを派遣してきた。人工呼吸器をつけて頑張っている患者さんたちである。ところがこれが実のところ大変彼らには評判が悪い。派遣された患者のなかにTLSというべき状態の患者が含まれていたこともあり、ここまでして生かされることに意義があるのか、あるいは、患者の自己決定権が守られているのかという不信や疑問が欧米諸国から出されてきた。米国でこの疾患に関わる者にとって、呼吸管理とは、せいぜいNPPVを行うことであり、可能であればそれさえ行わず、人生の最後を静かに閉幕させるということが基本となっている。カフレーターなども、気切を回避するための技術として成立しているといってよいかもしれない。さらにヨーロッパに目をやれば、特にオランダ、ベルギーではユーサネシア(安楽死)が主流である。オランダでの安楽死の大半はALS患者であるというデータさえある。しかし、世界は、アメリカとオランダだけではない。ドイツでは10%の患者がTMV(気切人工呼吸)に移行していると、今回のAPFでの発表があったし、カナダや北欧でもそこそこの数があるようだ。しかし他を圧して数が多いのは日本なのである。2000年になるまで、日本のALSの療養形態は、おそらく他の諸国との関わりがないままに独自の進化をとげてきた。患者の生きる権利をうたいあげたJALSAという組織の成立と努力や、在宅人工呼吸という概念を生み出した多くの看護職の活動、それらの結果ともいうべき保険医療としての採択、そして実は長期入院でのおざなりな扱いもあって、とくにわが国では在宅人工呼吸という療養形態が主流となった。おそらく全国で1000人という患者がそのような状態で、様々なサポートを得ながら生活している。日本において、気切人工呼吸や在宅療養の拡大こそが、患者の権利であり、自己決定でもあったのだ。

しかし、世界は均一ではない。異なる場所ではそれぞれに違った経路で進化をとげるものなのだ。とくに相互の連携がない場所では、相当に離れた形態に進化するのは生物進化では常識である。社会となると、その進化に関与する因子は、GNP、宗教観、家族観、人生観あるいは政治体制などの社会的要因だろう。そしてその社会のなかで合目的に進化を遂げた場合、そうでない社会での異なる進化は、容易に理解しえない現象として目に映るのではないか。例えば、一神教の信者からは、無神論者は野蛮極まりない人としか見えないだろうし、同じ一神教であっても宗教、宗派が違えば相容れない。例えば、神という概念を信じる欧米諸国の考え方からみたとき、一神教でないばかりか、無神論に限りなく近いわが国の姿は、野蛮そのものであろう。しかし、理性から神というものを妄想の一つと認識できたわが国の主流な考え方からすると、欧米は妄想に支配された蒙昧の衆ということになってしまう。今、ALSの療養に関する考えの違いは、このような差異となって存在しているのではないかと、私は感じる。相手が間違っていると思うだけでは、実は何も見えてくるわけではないのだ。

生きたいと思う感情を大切にすることで発展してきたわが国の体制と、死ぬことの自己決定を大切にすることで形成された彼の国のシステム。そこに極めて大きな差が、現在もたらされているが、それぞれにその国のいろいろな社会的要因からは合目的的に成立したのだと、考えるべきなのであろう。

しかし、相手が野蛮であるから、あるいは相手が深く思索しない民族だからと単純に思っているだけでは本当に相手のことは分からない。それぞれの差を科学的に分析し、必要ならその差を埋める努力は必要である。それぞれの進化の真ん中に新たな進化の道があるかもしれないからだ。APFで私の発表の後に、イギリス人の研究者の発表があった。彼はイギリスでの現状の報告をしながら、日本のことに触れ、10年前は日本では、患者に真実を告げず、患者の気切を家族と医師が決定していたと聞いている。その後はどうなっているのかを知りたいと発言していた。彼の発表が終わり、二人ほど外人の質問が出された後、勇気を出して手を上げた。My name is Yamamoto. A doctor, in Japan! The presenter wants to know recent situation of informed consent to ALS in Japan. I want to answer it.(私は山本と言います。日本の医師です。発表者は最近の日本におけるALSについてのインフォームドコンセントについて知りたいようです。私がお答えしたいと思います)このまま無謀に英語で飛ばしてもなんとか行けるかとは思ったが、かなり微妙な問題でもあるので、But it is very difficult issue. So may I answer in Japanese OK? Please put on your head-phone. (難しい問題でもあるので、日本語で答えたい。ヘッドホンをつけてくれ)と要求した。双方向同時通訳が入ったわが国での国際会議だからこそ可能な要求なのである。そこで私が発言したのは、次の5点である。@現在わが国において、患者にインフォームドコンセントなしに気切をするようなことはない。A日本では、ある患者を襲った不幸は、家族を襲った不幸として、家族で支えるという考え方がある。B日本では、呼吸器を止めることは社会が認めていないが、そのため、患者は悩まず安定した生活が送れる側面がある。Cしかし、逆にそのこともあって気切は30%に止まっている現状もある。D私が不思議に思うのは、呼吸器を本人の要請で切ることができる貴国で、なぜ現状のように気切導入が少ないのか。

インフォームドコンセントは、難病領域でもこの十年でずい分進んだと思う。確かに15年前、私は最初の患者だったDさんに対し、家族と話をして救命した。救命した直後、本人からはどうして助けたとなじられた。しかし、インフォームドコンセントが常識となった今、患者にALSのことを話をせずに気切を行うということは、呼吸筋麻痺が突然起こってしまった場合を除いてまずない。むしろ、まだまだ初期の段階の患者に、最重症のことを無慈悲に提示して、患者が苦しめるのはやりすぎだという批判(家族や、支援者からの)の方が多いくらいである。今回私が明らかにしたかったのは、CとDの点なのである。わが国では確かに呼吸器を止めることは、社会的合意が形成されていない。もはや余命いくばくもなく、意識さえない患者の呼吸器外しにおいても、大混乱が発生したくらいである。明確な社会の合意というのは、脳死と証明された患者は外してもよい、という限定であろう。それも臓器移植が前提のときだけである。そしてわが国においても、自己決定によって呼吸器を止める自由を認めてほしいという議論がある。呼吸器を止めることができないから、呼吸器導入をためらう患者こそ多いのだという議論さえある。では、すでにその自由がある国、例えばイギリスではなぜ気切呼吸器導入がほとんどゼロなのだろうか。発表者は、社会的基盤がないからだと発言された。イギリス人らしい極めて真摯な答えだと私は受け止めた。そう、日本はその基盤を作るため、これまで医療職、患者、患者団体が頑張ってきたのだ。ただ、私が本当に知りたいのは、実は違う。気切人工呼吸という生き方というものを、患者に提示していないのではないか、という疑念がぬぐいされないのだ。ALS/MND国際同盟を見ても、彼らの後ろに患者の姿が私にはほとんど見えない。彼らは一体何を代表し、また何を代弁しているのだろうといつも疑問に思う。今年の同盟会議でも、わが国でのTMVの多さについて袋叩きのような議論になったという。彼らに言いたい。あなたたちは、本当に患者の苦しみを理解して、生きていくという選択肢をきちんと提示しているのか。そして生きていくという環境を作ろうと努力しているのかと。そういう選択肢は患者にとってありえない、と勝手に考えているのではないのか?だから環境整備も必要ない、だからいつまでもTMV患者が増えないのではないのか?こういう論難の仕方とういのは相手と同じことをしているのだという自覚はある。しかし、一度それをぶつけてどういう回答があるのかを知らないといけないと思っている。そういったことが今回の国際会議の感想である。わが国が多すぎることばかりが問題であるのではなく、あなたの国が少なすぎることに問題がないのかどうか検証してほしいということなのだ。